諏訪形自治会「令和かわら版」に連載中の「諏訪形誌をちょっとナナメに歩く」の再構成版です。

 この連載が一つのきっかけとなって、諏訪形への愛着と関心が高まり、皆さんにようやく完成した『諏訪形誌』を手にとっていただける契機になれば、このシリーズを手がけた甲斐もあるというものです(窪田善雄)。



荒神宮本殿の彫刻作品

諏訪神社由来説明板の謎(?)

諏訪形の「ミホトケ」たち (前編)

諏訪形の「ミホトケ」たち (後編)



荒神宮本殿の装飾彫刻
『諏訪形誌』271ページ、278ページをご覧ください。

 荒神宮本殿は、正面の大きな拝殿の左を通って奥に進むと見えてきます。

 ここでまず紹介したいのは、この本殿にびっしりと群がる装飾彫刻のものすごさです。建築を支えるという本来の機能を無視して柱をズタズタになるまで彫り込む情熱には圧倒されます。

 少々マニアックな話になりますが、エウヘニオ・ドールスというスペインの美術史学者が、「人間には、調和のとれた理性的で完璧な美しさに憧れる一方で、おどろおどろしいもの、ゴテゴテしたもの、激情的なもの、ゾッとするものなどを本能的に志向する傾向があり、これが時代を超えてしばしば美術の様式として出現する」と述べました。そして、その典型例である十七〜十八世紀ヨーロッパのバロック芸術にあやかり、これらすべてを一括して「バロック」と名付けたのです。

 日光東照宮などに出現するゴチャゴチャ・ゴテゴテした過剰装飾傾向もその典型と思われ、「江戸バロック」と呼んでもいいのではと私は思っています。そして、諏訪形の荒神宮本殿もその典型といえるのではないでしょうか。

 さて、本殿に群がる彫刻の中で、特に圧巻なのが、東西の側面を飾る群像彫刻です。 それぞれ中国古代の伝説を題材にしています。


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 西側彫刻は、周の武王が殷の暴君紂王を倒した戦いの説話で、武王が殷の武将に槍で襲われたとき、どこからともなく金龍が現れて武王を護ったという伝説が描かれています。


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 東側の彫刻は、春秋戦国時代の説話で、豫譲(よじょう)という刺客が主君の仇を討とうと橋で待伏せするも失敗、豫譲の気概に感じ入った仇からその服をもらい受け、せめてものけじめとそれを刺したあと自害したという漢代の史書『史記』記載の伝承に題材を取っています。


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 これらの題材は、作者の宮大工竹内八十吉オリジナルのものではありません。当時の神社彫刻でよく採用されるテーマでした。おそらく、それらが水回りに関係するものだからです。龍は、雨を呼びますし、橋は水辺の付属物です。当時、建築にとって最大のリスクは火災でした。寺社建築に、水に関する装飾が多いのはそのためです。


 荒神宮で見ることができる竹内八十吉の彫刻は、精緻で、しかも素晴らしい躍動感と写実性を備えており、その超絶技巧には、驚嘆すべきものがあります。この本殿が上田市指定文化財になっているのも当然といえましょう。




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諏訪神社由来説明板の謎(?)
「諏訪神社」については『諏訪形誌』268ページをご覧ください。

 諏訪神社は、その由来が鎌倉時代にさかのぼる大変古い神社です。由来については、神社入口に立派な説明板があって読むことができます。ところが、その内容がちょっとおかしいのです。


 右の図はその「説明板」です。冒頭に、「住吉より此の地に鎮座し」と書かれているのですが、諏訪神社が「住吉」から移ってきたという話は、どこからも出てきません。

 おそらく、平成2年(1990)に説明板を新調した際、「往古より」と書かれていたものを「住吉より」と間違えて写してしまったのではないでしょうか。


 説明板の誤りは重大です。「住吉」を「往古」に、急ぎ直す必要があります。今後、神社委員会や諏訪形誌活用委員会等と相談して修正の方向を探りたいと考えています。


 説明板の記載は近日中に修正することになりました。
            ↓
神社の許可を得て2021年4月24日に「諏訪形誌活用委員会」で修正しました。


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諏訪形の「ミホトケ」たち(前編)




         ・仏教の歩み
         ・釈迦の仏教
         ・仏教の大変革(大乗仏教の成立)
         ・宗教となった仏教
         ・「ミホトケ」の増殖
         ・諏訪形の「ミホトケ」巡りへ




仏教のあゆみ
 前回は、神社巡りでしたが、今回は、諏訪形の仏像巡りを企画しました。

 しかし、「仏像=ミホトケ」というのもなかなか奥が深く、きちんと「仏教」を理解していないと本当の「ミホトケ巡り」はできないと思うのです。そんなわけで、今回は「前編 仏教のあゆみ」と題してまず仏教そのものについて語り、ミホトケ巡り準備編とさせていただきます。少々煩わしいのですが、しばらくお付き合いください。




釈迦の仏教
 仏教の祖、釈迦(本名ガウタマ・シッダールタ)は、二千数百年前、今のネパールの辺りにあった「カピラ」という小国の王族出身で、実在の人物であったことはほぼ間違いありません。彼は、紆余曲折の修行の末に忽然と究極の真理を悟りました。 「人生は苦しみに満ちているが、それは、事物への執着心(=煩悩)に起因する。しかし、すべての事物は、必ず変化してしまうまぼろしのように実体のないものであり、このようなものに執着しても何も得られるはずはなく、必ず苦しむことになる。この真理を悟れば、人は無意味な執着心から解放さ れ本当の幸せに到達できるのだ!!」おそらく釈迦は、すべての存在を氷の彫刻のようにとらえたのでしょう。変化のスピードは違うかもしれませんが、すべての存在は遅かれ早かれ、必ず変化します。だから、「変化するゆえ実体がない」という本質は、すべての存在で、氷の彫刻と同じだというのです。「そんなものに執着してもバカをみるだけだよ。」簡単に言えば、そういうことです。

 釈迦の教えは、多くの人々の心をとらえ、各地に仏教教団が形成されました。その中で信者たちは、戒律を守り、厳しい修行を通じて、「悟り=救い」をめざしました。しかし、それはあくまで自分自身を救うためでした。初期の仏教は、利己的なものだったのです。例えて言うなら、信者は自転車を必死に漕いで「悟り=救い」の世界に向かったのです。





仏教の大変革(大乗仏教の成立)
 釈迦の時代からほぼ数百年が経過した紀元前後の頃、仏教の世界でこれまでの仏教の在り方を反省する動きが起こりました。日々の生活に忙しい一般の人々にとって、救いを求めて特別な修行に従事することは事実上不可能なのに、そのような一般大衆を放っておいて、自分自身の「悟り」ばかりにかまけていてよいのだろうか。こう考えた人々は、これまでの仏教を、「小乗仏教=小さな乗物の仏教(まさに自転車です。)」と批判し、新たな仏教の創造に乗り出しました。仏教史上最大の変革の始まりです。

 一般大衆にとって、日々の修行など不可能ですが、釈迦のような偉大な修行者に救いを求めて祈願することならできます。釈迦は、数百年前に死亡した実在の人物ですが、そうした 現実性は無視され、釈迦は神格化されて「悟り=救い」を祈願する対象となっていきました。こうして生まれた新しい仏教を「大乗仏教=大きな乗物の仏教」と称しました。大勢の一般大衆を一気に救いに誘う「大きな乗物」という発想です。釈迦のオリジナル仏教を自転車に例えましたが、「大乗仏教」は、バスにたとえることができると思います。





宗教となった仏教
 少々ややこしい話になるのですが、そもそも宗教とは、スーパーな超越的存在を想定し、それを「神」などと呼んで祈願したり崇拝したりする営みのことです。しかし、先にみた釈迦のオリジナル仏教にそうした要素は見当たりません。それは、生身の人間である釈迦が説いた生き方の教えであり、釈迦の教えは、本来宗教ではなかったとみるべきです。

 これに対して大乗仏教は、釈迦を超越的存在とみなして崇拝し、釈迦への信仰によって救いを得ようとするわけですから、それはまさに宗教としての営みです。そして私たち日本人が馴染んでいるのは、こうした大乗仏教です。





「ミホトケ」の増殖
 大乗仏教で信仰対象となった超越的存在を「ミホトケ」と呼ぶことにします。もちろんその代表格は釈迦ですが、釈迦以外にも多くの「ミホトケ」がいるはずだという発想が生まれました。釈迦は、修行の末に究極の真理に覚醒して「ミホトケ」になったとすれば、同じような修行者は、他にもたくさんいたはずだ、という発想です。こうして「ミホトケ」の増殖が始まりました。多くのゴーストライターたちが、大乗仏教に見合った新しい経典を次々に書き上げました。それがいわゆる「お経」ですが、そのなかで多くの「ミホトケ」が創り出されていったのです。

 「ミホトケ」には、主にふたつタイプがあります。ひとつは、究極の真理に到達し、完全な悟りに到達した「ミホトケ」たちです。これらの「ミホトケ」は、「如来(にょらい)」と呼ばれます。もうひとつは、「如来」に仕えて修行を続け、あと少しで悟りに到達する「ミホトケ」たちです。これらの「ミホトケ」は、「菩薩(ぼさつ)」と呼ばれます。

 こうして「釈迦如来」を含めたさまざまな如来が創造されました。有名どころをあげれば「阿弥陀如来」、「薬師如来」、「大日如来」などとなります。そして、これらの如来に仕えるさまざまな菩薩が創造されました。有名どころをあげれば「観音菩薩」「勢至菩薩」「文殊菩薩」「普賢菩薩」「弥勒菩薩」「虚空蔵菩薩」「地蔵菩薩」「日光菩薩」「月光菩薩」などになります。

 大乗仏教をバスにたとえましたが、如来は、バス会社の社長のような存在です。すると菩薩は、その社員ということになるでしょう。最初は、お釈迦さまの会社ひとつから始まったバス路線ですが、次々新しいバス会社が設立され、バス路線は広がっていきました。このようにして多数の「ミホトケ」から成り立つ「大乗仏教」の世界が形成されていったのです。

 生み出された「ミホトケ」は、祈願や礼拝の対象になりますから、その実感を得るためには、目に見える「モノ」、つまり仏像にするのがもっとも効果的です。こうして「ミホトケ=仏像」が次々に生み出されることなりました。そうした「ミホトケ=仏像」のいくつかを、まずは日本の国宝のなかから見ておきましょう。



釈迦如来像(法隆寺)
 「釈迦如来」とは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)を尊ぶ呼び名です。奈良県斑鳩町にある、ご存じ法隆寺の釈迦三尊像は飛鳥時代に作られた日本最古級の仏像で、聖徳太子の姿を写したとも言われています(疑義あり)。両脇には薬王菩薩と薬上菩薩を従えて座っています。製作当初は全体が鍍金されていて、光り輝いていたと考えられますが、今では金がはげ落ち、深緑色を帯びています。




阿弥陀如来像(三千院)
 「阿弥陀如来」は法蔵菩薩が、一切皆苦の世から人々を救うため「私が仏になれたら絶対こうするよ!」っていう48個の誓いを立て、この48個の誓いを実現すべく悟りを開き、自ら困苦から解放された世界(浄土)を築き上げた姿とされています。京都市大原、三千院の>阿弥陀如来像は平安時代(藤原時代)源信の作(?)で、向かって右脇侍の観音菩薩坐像は両手に蓮台をささげ、左脇侍の勢至菩薩坐像は合掌し、ともに蓮台に坐する姿は、来迎の姿をあらわしているといわれています。


薬師如来像(新薬師寺)
 「薬師如来」は「医王如来(いおうにょらい)」「大医王仏(だいいおうぶつ)」とも呼ばれ、お医者さんのように病気を治すなどこの世の現実的な願い事をかなえてくださる頼りになる仏さまで、左手には薬壺を持っています。奈良市の新薬師寺の「薬師如来座像」は平安時代初期の作で、新薬師寺の本尊です。像の体内からは法華経8巻が見つかり、これも国宝に指定されています。




大日如来像(円成寺)
 「大日如来」は智恵の光を放つ、宇宙の中心とされる仏です。密教の教えでは「大日如来は宇宙そのもので薬師如来など他の仏は大日如来が変身した姿」とされています。忍者のような「智拳印」を持つのが特徴です。奈良市円成寺の大日如来座像は運慶の最初期の作として知られる、記念碑的な仏像です。




地蔵菩薩像(法隆寺)
 「地蔵菩薩」は、 釈尊が入滅(亡くなる)してから弥勒菩薩が成仏するまでの「無仏時代」の間、人々を救済することを釈迦から委ねられた菩薩です。 大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救うところから、その名がつけられたとされています。法隆寺の宝物館「大宝蔵院」に安置されているこの像は、もとは別の寺にあったものが移されたもので、平安時代前期の作です。地蔵菩薩像としては唯一、国宝に指定されています。




弥勒菩薩像(広隆寺)
 「弥勒菩薩」は釈迦が亡くなってから56億7千万年後に仏となってこの世に現れ、釈迦の教えで救われなかった人々を救済するといわれています。現在は仏教世界の中央にそびえる須弥山(しゅみせん)の上空にある兜率天(とそつてん)という天界で修行をしています。京都市太秦、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」は「国宝彫刻の部第1号」としてよく知られています。なお偶然でしょうが、56億7千万年後とは、地球を含む太陽系が消滅するまでの時間とほぼ一致しています。




十一面千手観音像(唐招提寺)
 「十一面千手観音」は苦しんでいる人々をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全方向を見守っています。またそれぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)という様々なご利益があり、修羅道に迷う人々を救います。奈良市の唐招提寺の新宝蔵に安置されている「十一面観音立像」は、もと唐招提寺山内にあった西山別院の像であったと伝えられます。奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになりました。


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諏訪形の「ミホトケ」たち(後編)



 前回は、神社巡りでしたが、今回は、諏訪形の仏像巡りを企画しました。  前回は、仏教のあゆみを通して、シャカ以外にも多くの「ミホトケ」が生まれていったメカニ ズムについて述べました。それを踏まえて今回は、そうした「ミホトケ」を諏訪形に訪ねてみた いと思います。



〇金窓寺のミホトケたち

 本尊 阿弥陀如来(本堂中央仏壇)

 金窓寺は、曹洞宗で禅宗のお寺です。金窓寺については『諏訪形誌』277ページをご参照ください。
 禅宗は「座禅」という修行を重視しており、釈迦オリジナル仏教の匂いが濃厚で、ご本尊は釈迦如来 であることが通例です。実際、『諏訪形誌』にも本尊を釈迦牟尼仏と記載してあります。 ところが、藤原廣生住職にお聞きすると、意外なことに、本尊は阿弥陀如来とのことでした。『諏訪形 誌』277ページの記述は誤りということになります。
 確かに、禅宗は釈迦如来を本尊とすることが多いのですが、特にきまりがあるわけではなく、各寺院の 由緒によって阿弥陀仏であることもあるのだそうです。

 この「ミホトケ」が阿弥陀如来であることは、手の形で分かります。親指と人差指でリングを作り、両手 を合わせて膝の上に置く、これを「上品上生印」といって、阿弥陀如来の典型パターンのひとつです。残念 ながらこの仏像の来歴などは不明です。


 釈迦如来(位牌堂中央仏壇)

 本堂の南には「位牌堂」が付属していますが、その中央仏壇に釈迦如来が安置されています。これは平成 20(2008)年に本堂が落成したおり、信者の方から寄進されたものです。両手は説法する形を表すも ので、「施無畏・与願印」と称します。


 釈迦三尊像(「古笈(こきゅう)」内仏像)

 金窓寺の伝承によれば、滅亡した武田家にゆかりの女性、玉窓金法尼が、慶長元年(一五九六)この地に移 住し、武田一門の菩提を弔うため、小さな庵を構えたのが寺の始まりとされています。このとき尼僧が持参 したとされる「木箱」が金窓寺に保管されています。ランドセルのように背負う仏具で、「古笈」と呼ばれ、 金窓寺最古の寺宝です。この木箱の中に、小さな釈迦三尊像が納められていました。四百数十年前の仏像の 可能性がある貴重な文化財です。


 釈迦三尊像は、いくつかのパターンがありますが、右に獅子に乗った文殊菩薩、左に象に乗った普賢菩薩と いう形式が一般的で、この像もそうなっています。
 文殊菩薩、普賢菩薩は、釈迦を主人公とする経典『法華経』や『華厳経』などの重要な登場人物であり、 釈迦に仕える菩薩の代表格となっています。


左から 普賢菩薩像 釈迦如来像 文殊菩薩像
 

 薬師三尊像(本堂東側仏壇)

 金窓寺には先々代住職のころまで、旧本堂北東の一部に薬師堂があり、参拝も行われていたようですが、今 はその仏事もなくなってしまいました。このことを機縁として檀家信徒の浄財も募り、平成30(2018)年、 本堂東側仏壇上に、新たに薬師三尊像を安置することとなりました。
 薬師如来は、経典『薬師瑠璃光如来本願功徳経』に登場する如来で、それによれば、かつて薬師如来が菩薩で あった時、人々を病気から救うなどの十二の本願を立て修行に励んだといいます。このことから薬師如来像は手 のひらに薬壺を持ちます。現世利益傾向が非常に強い仏で、身分を越えて多くの人々の信仰を集めてきました。 また、この経典の記述に従い、日光、月光両菩薩とともに三尊像を構成します。


  〇カンカン石 (「阿弥陀如来」ってどんなホトケ?)

 「たたくとカンカン鳴るのでカンカン石」・・・・「マジすか?」と言いたくなるようないわれですが、それはともかく、 江戸時代後期、紀州の徳本上人が「ナムアミダブツ」を唱えて全国を巡り、浄土教の一大ブームを巻き起こした ことを記念する石碑です。「カンカン石」については『諏訪形誌』の282ページを、上田地域での徳本上人の足 跡については『諏訪形誌』web版とDVD版の「徳本上人と名号碑」をご覧ください。

 うんちくを言うようですが、そもそも「南無」とは、サンスクリット語namo=「帰依します」の音写で「南無 阿弥陀仏」は「阿弥陀如来に帰依します」という意味です。この阿弥陀如来は、原語では「アミタユースブッダ」 =「量りしれ無い寿命をもつ仏」であり、「アミタ」に無理やり漢字を当てて「阿弥陀仏」としました。意味を 重視して「無量寿如来」ともいいます(分かりにくい話でスミマセン)。

 この仏を主人公とする経典は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つで、岩波文庫で現代日本語に翻 訳されています。なかなかおもしろいですよ。そのうち『無量寿経』の語るところによれば、阿弥陀如来は、 菩薩時代、四十八の本願を立て、その一つで「自分の名前を唱えて願う人は、誰でも極楽浄土へ連れていく」と誓 いました。これは極楽行き無料チケットの大量配布のようなものです。これを根本教義とした宗派が浄土宗や浄土 真宗で、大勢の信者を集め、隆盛を極めました。徳本上人の巻き起こした宗教的興奮もそのひとつです。金窓寺の 本尊が阿弥陀如来であるのもその影響かもしれません、と、これは勝手な想像ですが…。



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